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下記の「懿徳本紀(白河本旧事紀の懿徳天皇紀)」と『日本書紀』の懿徳紀とを比較し、どちらが懿徳的か判断していただければ幸いである。
《 懿徳天皇
皇太孫(スメミマゴ)、大日本彦耜友尊(オホヤマトヒコスキドモノミコト)、懿徳天皇と諡(おくりな)す。安寧天皇の第二の皇子。母は、渟名底仲姫(ヌナソコナカツビメノ)尊、事代主(ノ)神の孫、鴨玉(カモタマノ)命の女(むすめ)なり。綏靖天皇二十九年、戊申(つちのえさる)の歳にして、生(アレ)ましけり。安寧天皇十有一年癸亥(みづのとゐ)春正月壬戌(みづのえいぬの)朔(ついたちのひ・一日)、立(たち)て皇太子となる。時き年し十六。三十八年庚寅(かのえとら)冬十月庚戌(かのえいぬの)朔乙卯(きのとうのひ・六日)、天皇崩ず。皇太子年し四十三。
元年辛卯(かのとう)春二月己酉(つちのととり)の朔壬子(みづのえねのひ・四日)、皇太子、天皇の位に即く。時に年し四十四、秋八月丙午(ひのえうま)の朔己酉(つちのととり・四日)、安寧天皇を畝傍山の南、御陰井(ミカゲヰ)の上(カミ)の陵に葬る。九月丙子(ひのえね)の朔乙丑(きのとうしのひ・五十日)、皇后を尊んで、皇太后と曰ふ。
天皇、嘗て群臣に謂て曰く。朕(われ)、常ねに大祖及び皇考の遺訓を思ふに、其の極(きはみ)は、則ち心あるのみなり。夫(そ)れ心の物(も)のなるや、其の体(からだ)は、是れ天。其の用(はたらき)は、是れ方(みち)。其の変(かはり)は、即ち禍(わざはひ)ありぬ。盖(けだ)し、天の体なる言ひ難し。敬(うやまひ)は、用(はたらき)なり。逸(あそふ)は、変(かはり)なり。廉(きよき)は、用なり。貪(むさぼり)は、変なり。誠(まこと)は、用なり。偽(いつはり)は、変なり。智(さとる)は、用なり。愚(おろか)は、変なり。恵(めぐみ)は、用なり。害(そこなふ)は、変なり。聖人、其の体を体し、君子は、其の用を明(あきらか)にす。小人は、其の変に処(よ)る。体を体するものは、用は則ち自(ヲのづから)ありけり。変に処るものは、体用あることなかりけり。一(ひとつ)は則ち常人の知らざる所ろなり。一は、則ち常人の能((よ)く知る所ろなり。而(しかう)して、其の用に於(おけ)るなり。則ち紛@として相濫(あひみだ)しける。人を諂(へつら)ふを敬とす。欲の為めに廉と見はる。苛察(かさつ)を智とす。好(このむ)を愛するを恵とす。謀計(ぼうけい)して誠と見はす。智ある者(も)のにあらざれば、則ち孰(いづ)れか能く之を弁(わきまへ)ん。朕、いま天の体を得て、以て方(みち)の用を立(たて)んと欲す。而(しかれ)ども未だ能(あた)はざるなり。群臣少も仮借(かしやく)することなくして、之(これ)を諌諍(いさめあらそ)はば、則ち幸ひなり。
二年壬辰(みづのえたつ)春正月甲戌(きのえいぬ)の朔戊寅(つちのえとらのひ・五日)、都を軽地(カルノトコロ)に遷す。是を曲峡(マガリヲノ)宮と謂ふ。二月癸卯(みづのとう)の朔癸丑(みづのとうしのひ・十一日)、天豊津姫(アマトヨツビメノ)尊を立てて皇后とす。
是の月丙寅(ひのえとらのひ・二十四日)、白食国政大夫(ケクニノマツリゴトマウスマウチギミ)を以て大臣(オホイマウチギミ)とす。大臣(オホイマウチギミ)の官(つかさ)、是よりして始りぬ。
五年乙未(きのとひつじ)、皇后、観松津彦香殖稲尊(ミマツツヒコカエシネノミコト)を生みたまふ。
二十二年壬子(みづのえね)春二月丁未(ひのとひつじ)の朔戊午(つちのえうまのひ・十二日)、観松津彦香殖稲(ノ)尊を立てて皇太子とす。
三十四年甲子(きのえね)秋九月甲子の朔辛未(かのとひつじのひ・八日)天皇、崩ず。聖寿七十七歳。位に在(ましま)すこと三十四年。是の時、天下太平、万国朝貢、百姓、快楽す。
明年乙丑(きのとうし)冬十月戊子朔(つちのえねのついたちのひ・一日)、畝傍山の南、繊沙渓(マサゴノタニ)の上の陵に葬る。
男観松津彦香殖稲(ノ)尊》
注、@の文字はいとへんに云。
http://www.geocities.jp/identaisi22000/
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