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20系 特急「出雲」の編成と急行転用を追及する

 投稿者:  投稿日:2016年 7月 5日(火)09時46分14秒
  20系による寝台特急「出雲」はDD54牽引と相まって編成美が見事で、
ナハネフ23を使用した分割併合による基本編成はKATO製品の7両基本
セットにナハネ20の単品1両を足せば再現できるものの、車両番号や
所属にこだわって、ぜひ12連のフル編成にしたいところである。
また、後の「だいせん」と「さんべ」での急行運用もそそられるが、
“さよなら20系”や“12系+20系ちくま”セットで揃えたことにする
のは味気なく、運転時期が「出雲」と重ならないだけに「出雲」用の
車両をできるだけ有効に生かしたい。そこで、車両の履歴を考慮した
“お下がり”運用を行うことにした。


①特急「出雲」東京-浜田間の基本編成(品川)

品番10-366 20系寝台客車7両基本セットと別番号のナハネ20単品5087-1は、
ほぼ品川車で揃えられている。
ただし、基本セットに含まれるナハネ20 248だけは、なぜか向日町→青森
(「出雲」運転時)で解せないが、ナハネ20が不足するため、そのまま使う。
カニ21 11(品川)→カヤ21 11(宮原)とナロネ21 129(品川)→ナハ21 13
(宮原)は、「だいせん」で使用された。
牽引機はもちろん7010-1 DD54ブルートレイン牽引機(米子)。


②特急「出雲」東京-出雲市間の付属編成(品川)

付属編成にもナロネ21が入り、3両のナハネ20とナハネフ22で組成される。
これを基本編成との車両番号重複は避けてフル編成にする。
「さくら」「みずほ」「あさかぜ2・3号」の14系置き換えによって捻出
した車両により「出雲」「瀬戸」が20系化されたことから、
「さくら」佐世保編成と「あさかぜ」基本・増結セットのばらしを用いる。

単品5086-1ナロネ21 115は所属が青森→秋田→ナハ21 3(尾久)なので、
「さくら」佐世保編成のナロネ21 108(品川)→ナハ21 11(宮原)を使う。
「さくら」のナハネ20はいずれも昭和53年までに廃車となった50番台車で、
急行転用に適さないため「あさかぜ」用を使う。
逆に「あさかぜ」のナロネ21 129は10-366基本セットのものとダブっている。
ナハネフ22 7(品川)→ナハネフ22 1007(鹿児島)は10-366 基本セット。
これで、概ね品川車に統一した「出雲」のフル編成ができた。


③急行「だいせん5・8号」大阪-大社間の編成(宮原)

牽引機はTOMIX製品のDD51 500番台(米子)。
マニ50 2037(出雲)もTOMIX製品。

当初の編成は3本帯で、末期でも2本帯との混結はあるが、
“さよなら20系”のような2本帯車のみの編成は確認できていない。
カヤ21は「出雲」のカニ21を流用しても良いが、
“海坊主”(2本帯)のカヤ21とナハネフ22も使用されたことは明らかで、
“さよなら20系”セットばらしカヤ21 17(宮原)を使う。

3両のナハ21が連結されたが、宮原配置車8両のうち昭和53年10月2日の
運転開始時に落成しているのは4両のみで、当初は1~2両のナロネ21を
そのまま座席車利用した可能性がある。その例は尾久配置車の「十和田2号」
でもあったという。これに基づき、2両のナロネ21を代用(製品は座席状態)。
単品のナロネ21 115をナロネ21 105(尾久)に標記変更、→ナハ21 10(宮原)
と「出雲」付属編成用(「さくら」佐世保編成セットばらし)ナロネ21 108。
あと1両は、窓割がナハ21への改造に適しているナロネ21初期形ボディと
黒の床板・台車を組み合わせてナハ21 12(宮原)を製作。

ナハネ20は4両の連結で、次第に1両ずつ減車され、最終的に2両となる。
単品をもう1つ使ってナハネ20 312(宮原)2本帯車を製作。
「出雲」の付属編成用(「あさかぜ」増結セットばらし)ナハネ20 91を
ナハネ20 216(品川→宮原)に標記変更して転用。
“ちくま”セットばらしナハネ20 1340・2235(宮原)を充当。

分割併合は行われなかったが、ナハネ20の中間または編成の最後尾に
ナハネフ23が入る。
「出雲」用のナハネフ23 6(尾久に転属)は昭和55年12月に廃車となる。
これ以外に現行製品でナハネフ23はなく、旧製品の単品504→5004
ナハネフ23 2(「だいせん」運転時は宮原)を二本帯化。

“さよなら20系”セットばらしナハネフ22 25(宮原)のバックサインを
「急行」に交換。
これで、「出雲」用の車両を転用しつつ宮原車で統一した編成になった。


④急行「さんべ5・6号」米子-博多間の編成(米子)

“12系+20系ちくま”セットには「さんべ」の方向幕等も収録されているが、
車両の番号は宮原車。
20系1000・2000番台はドア上にB寝台表示幕のない形と★マークが再現
されており、車側灯は省略されている。
12系はドア部分の白帯がない姿で、「さんべ」用の米子車は白帯がある。

12系の米子への新製配置が運転開始に間に合っておらず、
牽引機のTOMIX製品DD51 1000番台(暖地型)と連結する
スハフ12 0+オハ12前期型+オハ12前期型(TOMIX製品)は出雲車を
借用、ナハネ20との連結用にKATO製のスハフ12単品5016を標記変更。

20系は“ちくま”セットの1000・2000番台を使うのも良いが、
車両の素性(所属)を優先する。
「出雲」付属編成用(「あさかぜ」増結セットばらし)ナハネ20 307の
標記をナハネ20 309(品川)に変更して転用、→ナハネ20 1309(米子)。
「出雲」付属編成用(「あさかぜ」基本セットばらし)ナハネ20 220(品川)
を転用、→ナハネ20 2220(米子)。
単品5090-9ナハネフ22 1鉄道博物館展示車両のバックサインを「急行」に
交換し、標記をナハネフ22 1005(米子)に変更。
これで、「出雲」用の車両を転用した米子車の編成ができる。

「だいせん」用に改造されたというナハネフ23 1000番台の3両中2両は
宮原配置で、山陰急行にのみ使用されたとしながら「ちくま」に充当された
写真は存在するが、肝心の「だいせん」に使用された記録が見つからない。
残る1両のナハネフ23 1019は米子配置で、これは実際に「さんべ」に使用
されたことが乗車記でわかる(昭和58年11月19日)。
これを再現すべく、更に旧製品のナハネフ23単品を調達し、ディテールアップ
:南洋物産のオロネ10用はめ込み窓パーツと幌を取り付け・各表示幕と窓枠
およびテールライトの色差し・貫通扉を銀・屋根をグレーに塗装・標記変更。


急行運用に対応して結局は“海坊主”や1000・2000番台を使うことにしたが、
あらゆる編成を網羅するためには致し方なく、それでも有効的に「出雲」の
“お下がり”を生かすことができた。そして、「出雲」の基本編成は温存
したまま同時に「だいせん」と「さんべ」の編成を組むこともできる。
 
 

米イモ 12系客車による季節急行「だいせん」の運用を検証する

 投稿者:  投稿日:2016年 6月13日(月)09時28分26秒
  急行「出雲」が20系化されて特急に格上げとなった昭和47年3月15日改正から
24系に置き換えられた昭和50年3月10日改正までの期間は、10系と旧型客車に
よる夜行急行の末期にあたる。同じ時期に定期急行の「だいせん」とは別に
夜行の季節急行「だいせん」が多客期を中心に運転されていたが、その編成
は定期列車と異なり意外性がある。

①昭和43年10月1日ダイヤ改正
大阪-大社間 季節急行「伯耆」を6711・6712レ「だいせん4・3号」と改称。
オハフ+スロ62+オハ×5+オハフ(大ミハ)の8両編成。
オハ35系あるいはオハ46・オハフ45を使用。牽引機は米子区のDF50。

②昭和47年3月15日ダイヤ改正
「だいせん4・3号」は臨時列車に格下げ。

③昭和48年3月31日現在の車両配置より
出雲に12系客車8両(オハ12初期型5両・スハフ12 0番台2両・オハフ13 1両)
が配置され、急行形を当初から普通列車に使用したとは考えにくい。
米子にはまだ12系の配置がなく、「さんべ3号」用としてオロハネ10・4両と
オハネフ12・3両が配置されている。
鍵を握るのは出雲に配置された3両のスハネ16。

④昭和48年10月1日ダイヤ改正
大阪-出雲市間に6707・6708レ季節急行「だいせん3・2号」を増発。
オハネフ12+スハネ16+スハフ+スハ×4+スハフ(米ヨナ)の8両編成。
オハネフ12は「さんべ3号」用の予備車を使用した可能性が高い。
スハネ16は出雲車で、座席車も出雲の12系を使用(6連の折り返し運用)
したと思われる。その場合、あと2両のスハネ16は京都夜行(後の
「山陰」)に連結した可能性がある。
昭和51年以降、牽引機はDD51に置き換えられる。
昭和52年4月2日にDD54 32牽引との情報あり(昭和53年8月11日 廃車)。

⑤昭和53年10月2日ダイヤ改正
6707・6708レ「だいせん7・6号」は12系客車8両編成に置き換え。
スハフ12+オハ12×4+オハフ13+オハ12+スハフ12(米ヨナ)。

⑥昭和59年3月31日現在の車両配置より
米子の12系10両(オハ12後期型5両・スハフ12 100番台4両・オハフ13 1両)
は、昭和53年10月2日~昭和59年1月31日まで運転された「さんべ5・6号」
の20系との併結用(スハフ+オハ×2+スハフの4連2組と予備車)の残党
(オハ12とスハフ12は昭和53年10月 新製配置)で、この頃から12系を
普通列車に使用したと考えられる。
20系12両(ナハネ20 1000番台4両・ナハネ20 2000番台4両・ナハネフ22
1000番台3両・ナハネフ23 1000番台1両)は保留車となっている。

出雲の12系は13両(オハ12初期型7両・スハフ12 0番台4両・オハフ13 2両)
となり、これらが「だいせん7・6号」に使用されたとみて良い。
昭和59年2月からは「山陰」に転用されている(昭和60年3月 廃止)。
それは、オハネフ12(米イモ)共々、昭和59年4月23日~24日の829レ
「山陰」の編成実録(スハフ12+オハ12×3+スハフ12)で証明できる。
その間に「だいせん7・6号」が運転される際には、米子車が波動用として
使用されたかも知れない。

⑦昭和60年10月1日ダイヤ改正
「だいせん7・6号」は臨時列車に格下げ。

KATO製10系寝台車とTOMIX製12系(スハフ12 0セット)を用いて、
この季節急行「だいせん」および晩年の「山陰」を再現する。

 

気動車準急の編成 ~新たな発見と深まる謎~

 投稿者:  投稿日:2015年12月23日(水)09時32分29秒
編集済
  TOMIX製キハ55系・初期急行色の発売を2016年1月に控えて、それを待つ
間に気動車準急用車両を整備しておこうと改めて資料を確認したところ、
またしても新たな発見があったと同時に未解決の謎も深まった。
そこで、確認できた点と疑問が残る部分を整理し、当時の映像や写真による
証拠を重視して再現した気動車準急の編成をまとめておく。これらの列車は
3~4両の短い編成で楽しめることにも増して、奥の深さを堪能できるのは
間違いない。


605D 準急「ちどり」米子⇒広島 昭和34年4月20日~

【発見その1】“キロハ18は扇風機カバー付き!?”

 運転初日の下り昼行は、キハ55 13+キロハ18 5+キハ55 25[広クニ]の編成
であった、と鉄道ピクトリアルの読者通信が記している。このうちキハ55 13
は1~5より前面窓が大きくされた2次型で、後位側妻面の丸みはそのままに
雨樋管が埋め込まれ、DT19台車を履く。また、キロハ18も準急色に塗替えられ、
赤帯と青帯が際立っていたという。別の日の編成に入った4も含め、このキロハ
18は、2等室の屋根上に扇風機カバーが付く6~8とは異なる1次車とされているが、
必ずしもそうとは限らない。というのは、確かにキロハ47004登場時の写真では
屋根上が全てベンチレーターになっているものの、この2両が後にキニ15に改造
された写真や図面を国鉄郵便・荷物車の歩み(上)で確認すると、元の2等室側に
扇風機カバーが付いているのである(キハユ15→キユニ15へ改造されたものも
同様)。おそらく1次車も後年に2次車と同様の改造がされ、その姿を残したもの
と推測できる。したがって、キロハ18が写っている写真が見つかっておらず断言は
できないが、「ちどり」のキロハ18にも扇風機カバーが付いていた可能性は高い。

<再現①> キハ55 13(TOMIX製品:準急色・バス窓、妻面R付け、台車交換)
+キロハ18 5(FEEL製キット:扇風機カバー付き、津川洋行製キハ10床板、
       TNカプラー、キングスホビー製シート)
+キハ55 25(TOMIX製品M:準急色・バス窓、行燈式ヘッドマークを紙で自作)


606D 準急「ちどり」岩国⇒米子 昭和38年5月1日

【謎その1】 “キロハ25は本当に連結されていたのか?”

 編成表のデータでは昭和36年10月からキロハ25に変更されたことになっている
が、キロハ18 4・5がキニ15に改造されたのは昭和36年3月(キハユ15も同じ)で
あり、少なくともその半年前からキロハ25になっていなければ矛盾する。更に、
やはり編成表で昭和38年10月からはキロ25に変更とあるが、昭和38年5月1日に
撮影された「ちどり」が走行する貴重な映像(国鉄時代vol.21付録)に準急色の
キハ55バス窓×2+キロ25+キハ55一段窓の4両編成がバッチリ写っていて、
ダイヤ改正よりも早くキロ25が連結されていたことを証明しており、そもそも
キロハ25は本当に「ちどり」に連結されたのか疑問を持っている。その証拠写真
が見つかっていないことに加えて、昭和36年4月1日現在と昭和37年4月1日現在
で受け持ちの岩国はもとより米子管内にもキロハ25が配置された形跡が確認
できないからである。この時、既に3両のキロ25が岩国に配置されていることも
あり、実際はキロハ18からキロ25に変更されたのではないかと考える方がむしろ
妥当に思える。唯一の手掛かりは、昭和38年2月に415Dとしてキロハ25 11[大ミハ]
+キハ55 208[天ワカ](どちらも昭和37年4月1日現在の配置)の編成で運転された
という記録(蒸気機関車No.37豪雪の日の木次線)があることである。
なお、市松模様の四角いヘッドマークを付けたキハ55急行色も同じ昭和38年5月
1日に撮影されており(国鉄時代vol.27)、この頃から次第に急行色へ移行して
いったものと思われる。

<再現②> キハ55 25+キハ55 13+キロ25 51(TOMIX製品:準急色)+
      キハ55 237(TOMIX製品:準急色・一段窓)


803D・804D 準急「やくも」米子⇔博多 昭和34年9月22日~

【謎その2】 “キハ25 200番台はどこから来たのか?”

 記事の多くには、あたかも当初からキハ26とキロ25の編成で運転されたかの
ように紹介されているが、記録上キハ26 131~136が米子に新製配置されたのは
昭和35年2月のことで、それまでの間はキハ25形3両編成で運転されたという。
それを裏付けるのが鉄道ジャーナル’74-12に掲載された’59-9の写真である。
それは確かに「やくも」のヘッドマークを付けた旧気動車標準色のキハ25・3連
で、2両目はバス窓のようにも見えるが、先頭は明らかに200番台である。ところが、
その頃は米子にも竹下にもキハ25 200番台の配置はなく、写真に写っている所属
標記や車両番号が判読不能なので、どこの車なのかわからないままとなっている
(候補は七尾・岡山・高松で、貸し出しかも知れない)。

<再現③> キハ25 200(KATO製品:一般色を塗替え)+
キハ25 200(KATO製品:スカ色、車輌番号付け替え)+
キハ25 200(KATO製品M、スカ色)


803D 準急「やくも」米子⇒博多 昭和36年3月27日

【発見その2】 “キハ55系化当初のキロ25は青1号帯!”

 国鉄時代vol.27に掲載された写真は準急色のキハ26一段窓×3の間にキロ25が
入る正規の編成で、キロ25の等級帯は青1号に見える。それもそのはずで、2等級
制化が昭和35年7月1日から、その後の1等車が淡緑6号の等級帯とされたのが
昭和36年7月29日なので、2等級制化後の青1号帯という過渡期にあたる。実は、
例の動いている「ちどり」に至っては昭和38年5月になっても未だ青1号帯のまま
走っており、準急色の車体は淡緑6号帯に変えられることがなかったのであろう。
遡って昭和35年6月29日には米子にキハ26 199・200が増備されて編成を増強し、
同年9月10日から正明市⇔下関間で山陰本線経由(キロ25連結)と美祢線経由の
分割・併合が行われた。

<再現④> キハ26 100×2(TOMIX製品:準急色・一段窓)+
      キロ25(TOMIX製品:準急色・青1号帯・1等標記)+
      キハ26 13*(TOMIX製品M:準急色・バス窓)
      *=編成に変化を付けるためのアレンジ



807D 準急「しんじ」宇野⇒博多 昭和36年10月21日

【謎その3】 “昭和40年のキハ25連結は通常のことだったのか?”

 昭和35年3月15日から岡山⇔出雲市間で運転が開始され、当分の間はキハ25・
3連で運転されたようだが、国鉄時代vol.27に掲載された昭和36年10月21日の
編成には度肝を抜かれた。ヘッドマーク付きのキハ26初期急行色・一段窓+
青1号帯のキロ25(急行色か?)+バス窓・準急色のキハ26 13という、いかにも
過渡期そのものの混色編成で、これがTOMIXの初期急行色を購入する理由にもなった。
「しんじ」の受け持ち区は昭和36年4月1日現在で岩国になっているが(鉄道ピク
トリアルNo.729キハ55系)、同日付けでキハ26 13の配置は竹下であり、この編成
は竹下車と推定できる。何しろ「しんじ」は珍編成の宝庫で、昭和40年11月の編成
も奇妙と言える。キハ58物語(JTBキャンブックス)に多層建て列車の一例として
示された「しんじ」の基本編成はキハ26+キハ25+キハ26となっていて、このキハ
25はキロ25の誤りではないかとずっと思ってきた。前述の実録通りキロ25を連結
するのが本来の編成であり、しかも岡山⇒米子間で2両のキハ26を増結する上に、
新見⇒米子間では「しらぎり」を併結し、併結相手も含めて1等車が連結されるのは
宇野⇒岡山間で併結の「砂丘」(キロ28)のみということもある。ただ、岡山⇒新見
間で併結される「たいしゃく」はキハ20だが、これは新見⇒備後落合間を単行する
ためである。しかし、後述する「石見」の例もあり、今はそれを信用せざるを得ない
と思っている。考えられるのは1等車の不足で、この時期から「ちどり」にはキロ28
とキロ25が併用されるようになり、1編成に1両の割合でキハ58も入るが、「ちどり」
に比べ後発で言わば格下?の「しんじ」にはキロ25が割り当てられなかったという
ことか。これが暫定的あるいは臨時的なものであったかどうかは不明である。

<再現⑤> キハ26 100(TOMIX製品:初期急行色・一段窓)+
      キロ25(TOMIX製品:初期急行色・青1号帯)+
      キハ26 13(TOMIX製品M:準急色・バス窓)


505D・506D 準急「石見」鳥取⇔石見益田 昭和37年2月25日

【発見その3】 “これもイレギュラーかキハ25 0番台の連結!”

 昭和36年3月1日新設だが、同年3月13日に受け持ちの浜田へキハ26 267~269が
新製配置されており、この場合はキハ26の到着を待って運転が開始された可能性
もある。キロ25の連結は昭和38年からと言われ、それまでの期間はキハ26形3両
編成であったとするのが編成表である。昭和41年7月時点での時刻表でも、鳥取駅
で折り返し運転(上り⇒下り)が行なわれていたとみなすことができ、予備車は
ない。だが、この日の編成は異なり、レイルNo.67に載っている「石見」の写真説明
に、キハ26の間にキハ20をはさんだ、とある。但し、乗務員扉が片側にしか見えない
ので、キハ25と判断でき、かつバス窓であり、事実、昭和36~37年当時の浜田には
キハ20・キハ25とも0番台のみが配置されていた。一般色のキハ25 0番台が中間に
連結された準急色との混色編成で、キハ26の1両がたまたま入場中だったのかは定か
ではないにしても、なかなか面白い。

<再現⑥> キハ26 100(TOMIX製品:準急色・一段窓)+
キハ25 0(BONA FIDE製キット、TOMIX動力ユニット、DT19動力台車)+
キハ26 100(TOMIX製品:準急色・一段窓)


準急「皆生」三原⇔出雲市 昭和37年10月1日~

【発見その4】 “キハ55系が使用されなかった異例の準急!”

 馴染みの薄い列車ながら、編成には興味深いものがある。最初の1年間はキハ25・
3連で運転されたという説があるが、昭和38年10月1日からはキハ28+キロ28+
キハ28の3両編成に置き換えられ、キハ55系を使用することなく、いきなりキハ58
系化された稀な例である。編成表ではキハ28がもう1両付くが、当分の間は欠車と
され、需要の動向を見たのか、キハ58系の配備が十分に行き届いていなかったことも
物語る。昭和39年10月1日から米子⇒出雲市間で準急「あさしお」(金沢⇒米子間
は急行、後の急行「大社」)キハ58系4両に併結されて、キハ58系7両の準急という
珍しい列車にもなり、昭和40年10月1日には準急「たまつくり」宇野⇔出雲市間に
改称された(愛称の温泉リレー)。その際、大阪⇔米子間(姫新線・因美線経由)
の新たな準急「かいけ」(キハ55系4両)が鳥取⇔米子間で「石見」に併結される。

<再現⑦> キハ28非冷房車(KATO製品:冷房ジャンパ栓なし、妻面配電盤なし、
      乗客扉下部丸窓なし、8ベンチレーター化、後位側給水口穴埋め)+
キロ28(KATO製品:冷房改造車、乗客扉下部丸窓なし、SHINKYOカプラー)+
キハ28非冷房車(TOMIX製品:冷房ジャンパ栓切除、乗客扉下部丸窓埋め)


このように、「ちどり」以外の列車は、いずれも特に初期の段階でキハ25がキハ55系
の代用として使われていた。特筆すべきは、キハ25 249[広アサ]が「やくも」の増結用
として準急色に塗り替えられ異彩を放ったことだろう(鉄道ピクトリアル アーカイブス
セレクション14:昭和36年6月20日撮影)。「やくも」は昭和40年10月1日に準急
「なかうみ」米子⇔小倉間と、急行「やえがき」米子⇔熊本間(キハ58系)となる
(後の急行「さんべ1・2号」)。そして、昭和41年3月5日に「ちどり」「なかうみ」
「しんじ」「石見」「たまつくり」は、仲良く揃って急行に格上げされた。

 

DF50のバリエーションにハマる!

 投稿者:  投稿日:2015年12月 5日(土)10時12分59秒
編集済
  ディーゼル機関車の山陰専用機と言えばDD54だが、それ以前に無煙化の立役者
となったのはDF50である。スタイリッシュなDD54に比べ、無骨で地味な印象の
DF50も個体差を意識すると、その渋い魅力の虜になる。KATOのDF50(茶)発売
予告は、それを後押ししたと言ってよい。何しろ最盛期の昭和41~42年には
米子機関区に41両ものDF50が配置され(最大は昭和59年のDD51で84両)、
山陰本線の優等列車や長距離普通列車の牽引に活躍していた。

そこで、先ずDF50のタイプの違いと装備の変化について整理しておく。
●初期型(1~7):前面の屋根のカーブが大きく、前面窓も大きい。
          屋根モニターの形状や窓の数が異なる。中間台車が中央にある。
●量産機:ズルツアー・エンジン=1200PS(8~65)
    :マン・エンジン=1400PS(501~573)

・煙道の小型化◇←◆(長) ・ワイパーの新型化 ・前面貫通扉のHゴム化
・アフタークーラーの新型化(48~、545~550、557~)
・前面手すりの大型化(48~、545~、それ以前のものも早い時期に大型化)
・エアーフィルターカバーの新型化(56~、557~)□←■十字型
・機械室覗き窓(41~、537~、530~534以外は後に改造で設置)
※但し、例外あり。 ◇◆□■=後述の凡例(新旧)
◎朱色の新塗装への塗替え(昭和38年~昭和40年頃に完了)
・最終増備車(569~573)は新製時から朱色

=米子区配置車の特徴(いずれも末期の装備)=
・大型スノープラウ(通年の装着は昭和38年以降と思われる)
・エアーフィルターカバーは新旧が混在(末期は新型が主流)
・タブレット防護プロテクター(乗務員扉窓に横棒2本、同下部に小ゴム板)
・台車砂箱(当初は全軸、後に第1,6軸のみ)

こうしたことを踏まえ、製品に手を加えて特定機を再現する。選択肢として、
初期型はマイクロエースの茶色しかなく、量産機はTOMIX製(絶版)とKATO
製それぞれに茶色と朱色がある(KATOの茶は2016年2月発売予定)。また、
KATOにはメイクアップパーツもあり、銀河モデルN-921≪限定品≫十字型
フィルター&煙道(長)DF50初期型用がTOMIX製品の改造に重宝する。

これらの製品を1個ずつ使い(マイクロエース製品は重連セットのため2両)、
動力が古いTOMIX製はズルツアー形、新動力のKATO製をマン形として、主に
煙道とエアーフィルターカバーの組み合わせで作り分け、計6両を配備する。
いかにも落成時らしい新品のKATO製に対してTOMIX製の中古品はくたびれた
感じが却ってリアルで、市販のパーツと各部の色差しによるディテール
アップが楽しい。一方、初期型2号機のレアな朱色への塗替えは大掛かり
だった。

①DF50 2[米:昭和40年8月転属配置~昭和42年7月転属](三菱)◇□
 マイクロエースA1371 ◎朱色への塗替え ・小型煙道に交換(←57号機)
 ・新型エアーフィルターカバー(KitcheN 61系客車日除け板で代用)
 ・信号炎管(KATO製品付属パーツ) <製品仕様(7号機も共通)>
 保護柵付き、旧型ワイパー、運転台窓Hゴム黒、台車砂箱(中間台車なし)

②DF50 7[米:昭和32年9月新製配置~昭和42年10月転属](三菱)◆■
 *急行「出雲」牽引(昭和38年5月)…「国鉄時代」vol.5付録
 マイクロエースA1371(茶色) ・スノープラウ取り外し
 ・ナンバー付け替え(6→7) <製品仕様> 煙道(長)、十字型フィルター

③DF50 54[米:昭和36年3月新製配置~昭和44年9月転属](三菱)◇■
 TOMIX 2204(朱色) ・十字型フィルター、保護柵(銀河モデルN-921)
 ・ナンバー末尾削除(旧製品:543印刷済み) ・製造銘板(RLF 213)
 ・スノープラウ取り付け(ワールド工芸C51キット) <製品仕様> 小型煙道

④DF50 57[米:昭和36年9月新製配置~昭和44年9月転属](三菱)◆□
 *急行「だいせん」牽引(昭和37年2月)…「レイル」No.67
 TOMIX 2224(ブラウン) ・煙道(長)に交換(銀河モデルN-921)
 ・ナンバー(製品に付属) ・スノープラウ取り付け(←7号機)
 ・保護柵(トレジャータウンTTP243) <製品仕様(54号機も共通)>
 新型フィルター、旧型アフタークーラー、新型ワイパー、台車砂箱(全軸)、
 タブレットキャッチャーなし(2・7号機は1エンド側のみ、569号機は4箇所)

⑤DF50 529[米:昭和34年6月新製配置~昭和48年10月廃車](川崎)◆■
 KATO 7009-2(茶) ・保護柵(トレジャータウンTTP243)
 ・ナンバー(製品に付属) <製品仕様> 煙道(長)、十字型(田の字形状)
 フィルター、旧型アフタークーラー、黒Hゴム前面ガラス、スノープラウあり

⑥DF50 569[米:昭和38年7月新製配置~昭和51年9月転属](川崎)◆□
 KATO 7009(朱色) ※煙道(長)、スノープラウ(メイクアップパーツ)
 ・ナンバー(インレタで合成) ・保護柵(銀河モデルN-250)
 ・2エンド側プロテクター白(プラ板) ・乗務員扉手すり色差し(白)
 ・タブレットキャッチャー色差し(銀) <製品仕様> 新型フィルター、
 新型アフタークーラー、旧型ワイパー、運転台窓Hゴム(グレー)、
 一方向形SG煙突、台車砂箱(第1,6軸のみ)

<①③⑥(朱色)共通> ・乗務員扉保護棒(銀河モデルN-250をカット)
            ・同下部小ゴム板(カワマタKA-028)

=米子機関区DF50配置履歴=
昭和32年5月~9月 3 4 5  (3)  昭和32年11月 7 8  (2)
昭和33年10月 7 8 14 15 16 22 23 24 25 26  501 502 503 504 505 506 507 508  (18)
昭和36年4月 7 8 41 42 43 44 48 49 50 51 52 53 54 55  501 502 503 504 505
       506 507 508 509 525 526 527 528 529 536  (29)
昭和40年7月~昭和42年9月 転属配置 1 2 3
昭和43年3月 42 54 57 58 59 61 62  501 502 504 505 506 507 508 510 521 522
       524 525 526 527 528 529 536 538 539 540 545 546 547 559
       564 565 566 569 570 571 572 573  (39)
昭和48年3月 501 502 504 505 506 507 508 510 511 512 513 521 522 524 525
       526 527 528 529 536 538 539 540 541 545 546 547 550 559
       564 565 566 567 568 569 570 571 572 573  (40)
<製造> 三菱重工業、日本車輌(22号機のみ)、川崎車輌、日立製作所

=DF50が牽引した山陰本線の主な列車=
【ぶどう色2号の時代】 昭和32年10月~ 急行「出雲」
            昭和33年10月~ 準急「白兎」、
                    大阪-大社間の夜行列車など
            昭和36年10月~ 急行「だいせん」「三瓶」など
            昭和37年2月~  京都-門司間の直通列車など
【朱色+グレーの時代】 急行「出雲」「しまね→おき→だいせん」「しまね→さんべ」、
                       京都-出雲市間の夜行列車など
            昭和46年4月 お召列車(松江⇒米子:502+529号機)

参考資料:RM MODELS 116、機関車表 国鉄編Ⅱ(Rail Magazine) 他

 

C59の発売予告がもたらした併結列車再現への欲求

 投稿者:  投稿日:2015年10月 6日(火)11時14分39秒
  KATOのC59戦後形が12月に発売予定と告知されたことによって、これまで回避してきた
東海道・山陽本線で併結された急行「せと・出雲」と「宮島・だいせん」の編成を再現
したくなりました。「せと・出雲」の併結運転は、「いずも」が急行に格上げされて
東京乗り入れを開始した昭和26年11月25日(当初「せと」は臨時急行、昭和27年9月1日
に定期化)から、東海道本線の全線電化を機に分離され「出雲」の東京-大阪間に寝台車
が連結されるようになる昭和31年11月19日の改正前までです。

モデルにする編成は、「やましなものがたり」(鉄道ファン誌に連載)で紹介された
昭和27年9月2日の京都駅での実見記録によるものです。

宇野・大社発東京行 3040・702 上り急行「せと・出雲」
C59 7[姫二](宇野→名古屋):戦前型(汽車会社製造)
11 オハフ33 328[東ヲク]:丸屋根車
10 オハ35 903[東ヲク]:絞り折妻・鋼板屋根車
9  オハ35 587[東ヲク]:丸屋根・全溶接車
8 スハ32 390[東ヲク]:丸屋根車
7 スハ32 475[東ヲク]:丸屋根車
6 スハ32 399[東ヲク]:丸屋根車
5 スロ51 15[東ヲク]:切妻車
4 スロフ30 7[東ヲク]:二重屋根車
③  スロ53 14[東ヲク]:切妻車
②  スハ43 184[米イモ]:切妻車
①  スハフ42 112[米イモ]:切妻車

①②③号車「出雲」、4~11号車「せと」、併結運転:大阪→東京

別の資料によると、「せと」の三等車はスハ43系、二等車はスロ53とオロフ32に
なっていますが、実見記録は全く異なるバラエティに富んだ好ましい編成で、更に
岡山と姫路で一部の車両を増結することになっているのに、中間に緩急車の連結が
なく、それも正規の編成と違います。そこで、正規の編成よりも写真や車両番号を
含む実見記録を重視して再現します。因みに、スロフ30はMODEMO急行・普通列車
増結車両セットにのみ含まれ、オハ35の丸屋根・全溶接車体はGMのキットが相当
します。「出雲」の基本編成は大阪止まりで、付属編成が「せと」に併結されます。
牽引機のC57も大阪まででお役御免となり、「せと」を牽いてきたC59に後を託します。

そのC59は、平底テンダー&板台枠台車の戦前型で、砂まき管を内側処理した汽車会社
製造による姫路第二機関区の7号機(後に九州で特急「はやぶさ」を牽引)です。
「やましなものがたり」にはナンバーこそ不明ながら京都駅で「せと」の先頭に立つ
C59のやはり戦前型の写真(昭和28年7月8日撮影)も掲載されています。当時の姫路
第二には戦後形も配置されていましたが、「せと・出雲」には主に戦前型が使われた
ものと推測できます。

KATOのC59は船底テンダー&鋳鉄製台車、動力逆転機付きの戦後形で、161号機が
プロトタイプとのことです。また、予定されている付属のナンバーは、いずれも
下関や広島から晩年に糸崎へ転属したカマです。市販のナンバーで姫二に該当する
のは、ダルマヤの90(戦前型でも鋳鉄製台車の後期形で、日立製作所製)のみです。
KATO製品に合わせてナンバープレートのパーツが発売されるでしょうし、KATOにも
戦前型のバリエーション展開が期待されます。

とは言え当分の間はプラ量産品で唯一、戦前型があるマイクロエース製品に頼らざる
を得ません。マイクロエースのC59は、それだけ見る限り悪くないと思うのですが、
客車を連結すると車高の高さが目立ちます。しかも、戦前型は銀車輪で動輪のボックス
穴が抜けていない初期の仕様なので、戦後型(改良品)の黒染め車輪に交換し、先輪や
従台車の上の隙間を隠すプラ板を貼ります。これだけで、随分と見栄えが良くなります。
問題のナンバーは銀河モデルのC59 79を切断して元のナンバープレートの上に貼り付け
れば、自分だけの特定機C59 7になります。C59+C60 101の切り継ぎでC59 101[姫二]
(砂まき管外付けの川崎車輌製)もできますが、戦後型は164[糸]のボイラーとテンダー
を差し替えて使用します。

一方、「宮島・だいせん」の併結は「だいせん」が急行に格上げされて京都-大社間に
運転区間が延長された昭和33年10月1日から、「だいせん」の併結相手が「さつま」に
代わる昭和36年10月1日の改正前までで、「さつま」との時代(昭和37年9月30日まで)
は電化区間が糸崎へ延伸しており、C59による併結列車の牽引は「宮島」との姫路-岡山
間(「宮島」は姫路-広島間)に限られます。その頃の編成は、「宮島」・「だいせん」
ともスハ43系(二等車はスロ51)です。気になるのがC59の受け持ち区で、「国鉄時代
vol.11急行列車」に昭和35年当時の貴重な写真と広島第一機関区で作成された手書きの
機関車運行表が掲載されています。それによれば、301レ「宮島」の姫路→広島と302レ
「宮島」の広島→岡山は岡山区C59の仕業とされていて、実際にC59 6[岡]牽引302レの
迫力ある発車シーンも収められています。ただ302レ岡山→姫路の仕業が記載されて
おらず、別日の302レはイレギュラーだったのでしょうかC59 122[糸]が広島駅で先頭に
立つ姿も証拠として残されています。

また、昭和36年4月1日現在の国鉄動力車配置表では姫路第二の機関区自体が消滅して
おり(正確には配置なし)、この時、広島第一にはKATO製品のナンバーに該当する
123・131号機、広島第二に同じく161号機が移ってきて(162号機は未だ下関に)いる
のです。



 

急行「出雲」と「三瓶」の興味深い編成

 投稿者:  投稿日:2015年 5月 6日(水)10時16分9秒
編集済
  ぶどう色1号・2号の時代に限定する客車の配備見直しに伴い、改めて列車編成表
を確認したところ、いくつか新たな発見がありました。昭和27年9月1日から昭和
31年11月19日改正までの間、つまり「いずも」が急行に格上げされ、東京-大阪
間で併結していた「せと」が定期化された時期に大阪-大社間の基本編成(昭和
29年5月21日からは大阪-浜田間)に連結されていた並ロがオロ40であったことは
初耳でした(その前後はオロ35で、後は近代化改造車)。その頃、客車の所属は
出雲今市で、昭和33年10月1日現在の国鉄客車配置表を見ると(それよりも古い
配置表が見当たらない)、出雲にはオロ36が2両、オロ40は米子に2両(どちらも
標準丸屋根)が配置されています。米子のオロ40は昭和31年11月以降、京都-
松江間の準急「白兎」に連結されます。

時は下って、昭和38年10月1日改正時は、スハフ42+スハ43+スハ43+スロフ53
(東京-浜田)+オロネ10+オハネ17+ナハネフ10(東京-出雲市)という編成
でした。昭和36年10月1日の改正で、「出雲」は福知山線経由から山陰本線経由に
なり、東海道本線内では下り「南紀観光」上り「金星」と併結された、スハフ42
+オロネ10+スハネ30+スロ54+スハ43+スハフ42は、コンパクトな6両編成が
好みですが、昭和39年10月1日改正まで変わりないと思い込んでいただけに、意外
でした。客車の所属はいずれも品川で、39.10以前に出雲市-浜田間編成の端に
スロフ53が組み込まれていたこと、京都-出雲市間編成の端がナハネフ10であった
ことがいかにも39.10以降への過渡期的な編成で興味深いものがあります。因みに、
スロフ53・ナハネフ10は、スロ53・ナハネ10と窓配置が同じなので、GMキットの
妻板にテールライトを付けるだけで再現できます(スロフ53はアルミサッシ化も)。

36.10で福知山線経由の昼行列車として大阪-大社・浜田間に新設された急行「三瓶」
も昭和37年10月からスロ51が増結される変化がありました。これにより、マニ32+
スロ54+スロ51+オハ46+オハ46+スハフ42(大阪-浜田)+オハ46+ナハ11+
ナハ11+スハフ42(大阪-大社)という編成になりました。昭和39年4月1日現在の
国鉄客車配置表によると、浜田に3両のスロ54と共に3両のスロ51が配置されており、
このスロ51は何に使用されていたのかという疑問が解けました。昭和40年10月1日に
「三瓶」が気動車化されると、今度は京都-下関間の829・826普通列車に連結される
ようになり、昭和42年10月時点でもその記録があります(出雲に配置転換)。なお、
浜田に配置されていたスロ51の内、スロ51 18は昭和37年6月に撮影された写真に
近代化改造を施した姿(当時は門司区配置)が収められています。

 

D51戦時型の改造

 投稿者:  投稿日:2015年 1月12日(月)08時12分7秒
  KATOのD51一次形が発売されたので、それをベースに標準形ボディ(戦時型ドームへ交換)
と船底テンダー(マイクロエース製)に差し替え、改めてD51戦時型を配備することに
しました。米子管内に配置された戦時型は、次の4両です。
・1028(昭和37年9月:米子~昭和44年4月:廃車)
・1044(昭和28年11月:浜田~昭和33年9月:鳥取~昭和34年2月:米子~
    昭和37年3月:浜田~昭和48年3月:廃車)
・1067(昭和48年4月:浜田~昭和48年11月:廃車)
・1129(昭和34年3月:米子~昭和41年1月:浜田~昭和42年7月:米子~
    昭和43年1月:鳥取~昭和44年10月:米子~昭和46年7月:浜田~
    昭和48年4月:廃車)

昭和33年8月時点の運用として、鳥取区のD51が福知山-米子間の客貨を担当し、
米子区にはD51の配置はなく、D50が鳥取-浜田間の貨物を担当、浜田区のD51が
米子-正明市間の客貨を担っていたことから、1044[浜]が狙い目となります。
「SL甲組の肖像」8に写真が掲載されている1129[米]の姿(昭和38年3月時点)は
敦賀式(後藤工場タイプ)集煙装置・重油タンク搭載の重装備となっており、この
仕様にしたいところです。「国鉄時代」vol.10 D51と装備によれば、敦賀式集煙装置を
装備したのは米子・鳥取・豊岡区とされ、浜田区では装備されなかったかも知れない
のですが、1129が昭和34年に米子へ転属してきて敦賀式を載せていることから*、
1044にも当時は敦賀式が載せられていた可能性があります**。また、同誌に敦賀式
を装備した新見区のD51が紹介されているため、例外もあったようです。
昭和28年に装備されたという敦賀式は昭和37年に鷹取式へ変更され、昭和40年頃
には姿を消したとのことです。

更に、国鉄動力車配置表を見ると、1044・1129とも重油併燃機の記号が付いておらず、
昭和36年4月現在は福知山区の配置だった1028には「併」の文字が確認できるので、
1129はこの後に重油タンクを取り付けたものと思われます。他誌で、昭和40年3月の
鷹取式集煙装置(4本脚の後藤工場タイプ)・重油タンクを搭載した1028、昭和44年
3月の鷹取式集煙装置のみ装備した1044をチェック済みです。1044は、最後まで重油
タンクを取り付けなかったと推定できます。

そうなると重油タンク付は捨てがたいものの、やはり1044[米]の敦賀式集煙装置搭載・
重油タンクなしにするのが良いと思うのです(やえもん製のナンバープレートあり)。
ボディはデフ点検窓が開いていない標準デフでスノープロー付の498を使用します。
ドローバーはKATO製9600用の特殊な形状を利用して、テンダー側の渡り板にうまい
具合にはめることができます。こうして、D50の仕業を引き継いだ米子区のD51 1044
号機が完成しました。尚、余剰となる一次形のボディとテンダーは後に浜田区へ配置
された1号機用として温存します。

*「機関車表 国鉄編Ⅰ」で考察すると、D51 1129は高知区時代の昭和27年3月に
重油併燃装置を搭載、昭和28年8月に集煙装置(多度津工場式)を搭載しているが、
昭和34年3月に多度津工場にて新缶に交換されており、この際に重油タンクと集煙装置
は戻されなかったと考えられる。写真に写っている集煙装置は小型の多度津工場式とは
明らかに異なる後藤工場タイプであり、米子に配置されてから敦賀式集煙装置が搭載
されたと断定できる。

**D51 1044は昭和32年3月にボイラー交換されており、この時に後藤工場へ入場して
いるので、そこで敦賀式集煙装置を装備したのではないだろうか。


 

おろちカラーのDE10発見!

 投稿者:  投稿日:2014年 8月10日(日)09時41分27秒
編集済
  帰省の折に「やくも」の車中から米子駅構内の様子を見た時、
おろちカラーのDE10 1161を発見しました。
検査入場のHOT7000系をぶら下げて留置されていましたが、
帰りに見た時は後藤に行こうとしていたのかホームに入線していました。
DE15 2558の姿はなく、検査を終えて木次へ戻ったものと思われます。
その間の代役とは言え、「奥出雲おろち号」牽引のためにわざわざ
おろちカラーに塗装されたこのDE10もつい模型で再現したくなりましたが、
役目を果たしたので、元の国鉄色に戻されるようです。


 

D50と8620を何とかする

 投稿者:  投稿日:2014年 7月 5日(土)11時48分43秒
編集済
  C58 385の改造で手応えを感じたため、
・モーターを交換しない=走行性能を維持する
・ランボードをボイラーから切り離さない=ボディの強度を保つ
・レボリューションファクトリーの特注ナンバーを持っている特定機[米]に仕立てる を条件に、
未だファインスケール・モデルがないものについては、
<マイクロエース製の蒸機が最もバランスを崩している箇所に手を加える>
ことで、手軽にそれらしくする改造を施しました。

D50 222:「終戦直後の蒸気機関車」掲載の写真(鷹取区時代)を参照。
     C53の20立方米テンダー(元々D50用)へ交換することによって、
     全長がC51 259と同じにまで短くなり、短いドローバーのお陰で、
     機炭間が限界まで縮まる。曲線でテンダーとキャブが干渉するので、
     ボディの火室部分を発電機のすぐ後まで(約4mm)カットし、
     ボディを短くして、キャブを前進させる。
     ロッドの赤を銀で塗り潰し、足下を引き締める。
     何しろボイラーと全長は長すぎるのが最大の欠点なので、
     それが解消されただけでも随分と見栄えが良くなり、
     機炭間がギリギリなのは超かっこいい!

48630:プロポーションもさることながら、とにかく黒染め車輪にしたかったので、
    C50デフ付きを種車にして、C50を8620らしくする手法を採用した。
    8620のボディと入れ替えることも検討したが、
    8620の動力(銀車輪)が無駄になるから、諦めることにした。
    この場合、ランボードの前半分は高→低から低→高に付け替える必要がある。
    また、8620のシリンダーは縦に短い(ランボードの位置が低い)ため、
    それに合わせた大型デフをプラ板で自作して貼り付ける。
    更に、48630のキャブは裾が長いので、縦長なC50のキャブを生かして
    裾の角を丸め、側窓の窓割り3分割を2分割に加工して似せる。
    ボディ側面の機器類を付け替えて完成。
    ハチロクっぽくなったかと言えば今一歩だが、
       黒染め車輪にした効果が期待以上で、まずまず満足。
    昭和初期からずっと米子で働いたカマだけに配備が欠かせないのだ。
    
 

KATO製C57四次形の190号機[米]化

 投稿者:  投稿日:2014年 6月 7日(土)11時27分47秒
編集済
  KATO製C57四次形の購入に先立ち、米子機関区・木次機関区を含む「SL甲組」の肖像8
が発売され、その中に決定的な証拠となる米子区時代のC57 190が掲載されていたので、
その写真に基づいて早速、KATO製C57四次形を190号機[米]化しました。
・非公式側ランボード側面を這う暖房管を取り外し。ランボード側面の白線消し。
・自作の真鍮製山型ランボードを取り付け。
・レボリューション製C61標準デフの高さを切り詰めて貼り付け。
・解放テコと一体のつかみ棒、暖房管を切除。デフ前側に手すりを取り付け。
・先輪をプレート車輪(C57 180Assyパーツ)に交換。
 ”抜けてる”スポーク先輪はC56に転用。
・ワールド工芸製の動力逆転機を取り付け(逆転棒のモールドはそのまま)。
・ボイラー上の歩み板にある手すりを切除。
・清缶剤箱は取り付け穴のモールドが凸型に出っ張っているため、そのまま。
・キャブ側面のタブレットキャッチャーを切除して、窓下にナンバープレート
 (レボリューション製の特注品)を取り付け。側面と後側の白線消し。
・テンダー上部の後方を切除して段付きタイプに加工。
・炭庫部と石炭をD51標準形の前側を削って交換。
・ATS車上子を切除。
これで念願だった米子区時代のC57 190号機ができました。
製品の完成度が高いだけに、言うことなしです。

ただ、「SL甲組」の肖像8には他にも気になる写真がいくつかあります。
・快速「いずも」のヘッドマークを付けたC51 198の背後に留置されている
 マニ31W+スロ32は、どの列車に使われた編成なのか?(昭和30年8月)
・C11 11の炭庫側にスノープローが付けられており、C12 201の写真も同様に
 見えるので、車体をスクラッチしたC12 66のバックにスノープロー
 (ワールド工芸製C51キットの残パーツ)を取り付けた。
・DF50が牽く806レ準急「はくと」として紹介されている写真は、
 「鉄道ピクトリアル」オハ35系(Ⅰ)にDF50 7牽引の712レとして載っている写真と
 全く同じで、機関車次位の客車がオハフ33であることから712レが正しいと
 思われる(「はくと」ならスハフ42のはず)。
・キ100と並ぶ木造単線ラッセル車キ1形キ86は強烈!(昭和29年10月)
木次機関区編もほとんどが初めて見る写真で、実に興味深いです。



 

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